その日は朝から何となくついてない日だった。
それは小さな小さな禍事だったが、それが積み重なりあんな禍々しい事を運んでくるとは、思いもしなかった。
「オルヤ。すまない。新しい紐を取ってくれるか?」
いつも髪を束ねている紐がブチッと嫌な音をたてて千切れたのが最初だった。
めったにこんな風に千切れる事はなく、暫くその千切れた紐を眺めていたが、仕事へ出かける前の慌ただしい中そうものんびり思案をしても居られなかった。
「はい。これ。珍しいわね?これ皮だからそんな滅多に千切れる事なんてないのに…。」
そう言いながら千切れた紐を眺めてオルヤは呟く。
「そうだな。まぁ元々劣化していたのかもしれないな。さ、朝食にしようか。」
「そうね。冷めちゃわない内に食べましょ♪」
朝食を取った後、まだ生まれて日の浅い娘のラクシュミとオルヤにキスをし家を出た。
今日はエリオットと共に瘴気の森を見まわる事を約束していた。
森の入り口へ行くと、エリオットは既に来ており嫌な顔をしていた。
「どうした?難しい顔して。」
「いや…何だか今日は森がざわついてる気がしてさ。何だろう…嫌な予感がする。」
「何だ。珍しいな。お前がそんな顔する時は、決まって中が荒れてるからな、尚更私達が行かねばなるまい?他の者では危険だろう。」
「…そうだな。行こう。」
そう言って中へと入っていった。
中へ入ると何時もに比べ異様なほど魔獣の数が多い。
「エリオット、お前の勘が当たったな…。」
と獣からの攻撃をかわしなぎ倒しながら言う。
「ここまでやってきて、取りこぼしがないと良いが…。」
一薙ぎし、ホゥと息をつく。
「さて、最奥だ…どんなヤツがお出ましか、楽しみだ!」
「気を付けて行けよ。まぁお前ならバグウェルが降ってきたって、何てことないだろうがな。」
と互いに笑いながら歩を進めた。
■オルヤサイド―――。
朝4刻になる頃…。
家の片付けを済ませ戸棚の所をふと見ると、手渡したはずのお弁当が忘れられているのに気が付く。
「クロードさんたら…。そうだ。今日はもうやる事もないし、お弁当持って行ってあげよう♪帰り川辺ででもご飯一緒に食べれたらいいな。」
と、そのお弁当を手に取りベットへ行くと、すやすや眠る娘にそっとキスをして。
「いい子でね…。すぐ戻るから。」
と家を出た。
蝶を飛ばすとクロードさんは瘴気の森に居る事が分かる。
「ふふっ。きっとエリオットさんと一緒ね。2人分持ってこれば良かったかしら?」
そんな事を思いながら瘴気の森の入り口で待つ事にした。
「朝1で出て行ったから、もうそろそろ戻ってくるわよね。ここで待ってよう。」
入口近くにある倒木に腰かけ愛しい人を待った。
常ならそこは安全な場所。魔獣といっても害のないモフがのんびり這っている位だった。
けど私はこの時気が付かなかった。普通何匹も居るはずのモフが、その日は1匹もその場にいなかった事を。
”グルルルル………。”
座っていた倒木の後ろから嫌な声が聞こえる。
ハッとして振り返るとそこにはいるはずのないヴォルゴが唸りを上げて木立の間からジリっ…とこちらへにじり寄ってきていた。
急いで立ち上がりお飾り程度の剣を抜く。膝に乗せていたサンドイッチは床へと落ち、形を崩す。
”どうしてこんな所に…。”
何処かの武術に属していない私には、抵抗するほどの力量はない。
向かう恐怖に体と手が大きく震える。
何度か攻撃を躱すもジリジリと体力が削られていく…。
最後大きく唸ると同時に、脇腹をえぐられるような大きな衝撃と痛みが走った。
「くろ…ど……さ…。」
愛した人の名を小さく呼び涙をこぼしながら、その場へと崩れ落ちた。
意識が遠のく中でやっと助けに入る人たちの声が聞こえた。
■クロードサイド――。
同じくして最奥に辿り着いたエリオットと私は唖然とする。
何時もならその場に居るはずの主が居ないのだ。
「何だ…誰か、始末したのか?」
「いや、ここまでの魔獣の数から言って、それはないだろう。」
「うーん…でもまぁ、居ないから…帰るか。」
「あぁ、ここでこうやっていても仕方がない。」
と二人並んで出口へと向かう。
「何だ…?」
出口近くに行くと、妙に人が溢れかえり沢山の人が大声を上げている。
「何かあったのか?」
と近くに居る仲間へと声をかけながらその人垣の中心へと歩いていく。
「クロード…。」
周りに居る者の視線が私へと集まりその顔は皆悲痛そうな面持ちだった。
”ザワ…”と胸に不安が過る。心臓が早鐘を打ち始めると、地面に見慣れた籠が無残な姿で転がっているのが見えた。
”まさか…”と人垣を掻きわけ輪の中へと飛び込むと、
「逝くなよ!戻ってこい!!ホラ、死ぬんじゃねぇ!!もっと!!もっと薬持ってこい!!早くしろ!!グズグズしてんなボケ!!」
と魔銃の部下に怒声を浴びせ血まみれになりながら必死で手当てをしているカルロスが見えた。
「カル…ロス…何や、て…。」
回り込み見るとそこには、青い国民服が色を変えるほど血の色でそまったオルヤが倒れていた。
「オ…ルヤ…?…どうした…んだ…何故…?…オルヤ……オルヤ!!オルヤぁああ!!!!」
揺さぶり起こそうとする俺をエリオットが必死で止める。
「今動かしたらホントに逝っちまうぞ!!俺に任せて黙って引っ込んでろ!!」
カルロスに言われ、その場へと私は崩れ落ちた。
蒼白になりピクリとも動かないオルヤを、掻き抱く事も出来ず、ただ…見ているだけしか出来なかった。
数日後―――。
「オルヤ。今日も外は気持ちいぞ?お前の好きな花を摘んできた。横に飾っておくからな。」
あの日、瀕死の重傷を負ったオルヤはカルロスや魔銃師たちのお蔭で、かろうじて命を繋ぐことが出来た。
だがしかし…。
「クロード…。すまない…。やれる事はやったんだ…。だが意識が戻るかどうか…。それに…酷なようだが…持って数日かもしれん。」
と自宅までオルヤを運んだ後、カルロスは去り際に言った。
「傷が深すぎた…。血を失いすぎててな…。多分取り戻す事は難しいだろう…。大事に…してやれ。」
と慈愛を込め肩に手を置くと、戸口を出て行った。
何故、彼女がこんな目に合わなければならなかったのか。
あの日朝から何となく嫌な気配を感じていたではないか。ダンジョンへ入る時も、エリオットの危惧を何故もっと深く考えなかったのか…。
後悔ばかりがとめどなく押し寄せる。
「オル…ヤ…どうして…。すまない…。すまない……。目を開けてくれ…。大丈夫だって言ってくれ…オルヤ!!」
”ぅあああああああああ!!!!”
目を開けないオルヤの手を握り、枯れるほど泣いた。
そして今、数日たってもオルヤは目を覚まさない。
このまま逝ってしまうかもしれないと、その恐怖に震えていた。
ラクシュミは変わらず愛くるしい笑顔を投げかけてくる。
だが私はその笑顔を直視できなかった。オルヤに似ている娘からの愛情を受け入れるのには、この現実は辛すぎた。
「クロード…。奥さん、どうだ…?」
エリオットとメルディは毎日の様に私とオルヤを見舞って来てくれた。
メルディはこんな私の代わりにラクシュミの面倒を何の文句も言わず見てくれた。
「一度も…目を覚まさないんだ…。もう…このまま…。」
そう言うと涙が零れる。エリオットの肩を借りて泣いた。
「すま…ない…。ごめん……。」
そうこぼす私にエリオットは余分な事は何も言わず私の肩を抱きしめ
「大丈夫…大丈夫だ。」
そう言った。
そんな日々が続き、意識を取り戻す事を諦め、それでもまだこうして息がありそこに居てくれることを感謝するようになった頃、
今までやった事もなかった娘の為のご飯を用意していたある朝、不意に懐かしい声を、待ち望んだ声を耳にした。
「く…ロー…ド……?」
「オルヤ!?」
手にしていた物を全て投げだしオルヤの元へと足を運ぶ。
「オルヤ!オルヤ!!」
「…お…みず…。」
そういう彼女の手を握り近くに置いてあった水を飲ませてやる。
「クロ…ど…貴方、の…おベント…、だめに…しちゃった…ごめん…ね…。」
そう言って蒼白い顔で薄く笑う。
「いいんだ…いいんだ…そんな事…。私こそ…すまない…。」
そう彼女の手を握りベットの縁へ頭を突っ伏すと、揺らりと手を伸ばし私の頭を撫でる。
「貴方が…泣く、なんて…ふふっ…。」
と愛しそうに私を見つめた。
「貴方の顔…また見られて…良かった…。」
そう言うと
「ラクシュミは…?あの子は…大丈夫?」
と聞いた。
「あぁ…メルディが、見ててくれる。」
と告げると、
「そう…それなら…安心ね…。今度…お礼を言わなくちゃ…。」
と言った。
「あぁ…君が歩けるようになったら…一緒に会いに行こう…。」
とその額に口づけた。
このまま元気になって行って欲しい。心からそう願いながら。
けれど、それは叶わなかった。
オルヤは目を覚ましても、床から上がれる事はなく、顔も蒼白なまま回復が見られなかった。
それでも、会話が出来る。側に居てくれる。それだけで私は神に感謝した。
ラクシュミを床の上であやし、精一杯愛情を注ぐ姿を見ると、生き急いでいる様に思えたが、気づかないふりをした。
認めてしまったら、今すぐにでもこの手を離し旅立ってしまいそうに思えたから…。
季節が巡り春の兆しが見え始めた頃、オルヤの体調が急変した。
それまでは体を半分起こしていられたのが、寝たきりとなった。
もうすぐそこまで春が来ているというのに、やけに寒く季節外れの雪が降った夜、
オルヤは高い熱を出し、意識を失っていた。
「オルヤ…お願いだ…逝かないでくれ…。私を一人にしないでくれ…。元気になる為だったらなんだってする。だから…逝くな…。」
手を握り必死で祈る。
危篤状態となり、もう目を開く事もないだろうと思われていた。
と、不意にオルヤが目を開いた。
「クロー…ド…。あな…た…。ど、こ…?」
もう目も見えていないのか、手が宙を掻き私を探す。その手をしっかりとつかみ
「ここにいる!オルヤ!ここにいるよ。」
そう叫ぶと声を頼りに焦点の合わない目でこちらへ顔を向けた。
「あぁ…クロード…ごめ…ん…ね…。元気…になりた、か…たけ、ど……ここ、ま、で…みた…い…。ご…めん…ね…。」
と目から涙が零れた。
「そんな事…いうな…。娘には…ラクシュミには君が必要だろう…?だから…頑張れ…私を…一人にしないでくれ…。」
というと私の目からも涙があふれる。
「なか…ない…で。らく、しゅ…み…を、おね…がい…ね…?あなた…も…私に…囚われず…幸せに…なって…。」
ヒュウヒュウと息を切らしながら、精一杯話す彼女に
「もう、話さなくていいから…。元気になってくれ…。」
縋る様に懇願するが、小さく横に首を振る。
「みじか…かった、けど…幸せ…だった…わ…。あり、がとう…。愛して…るわ…。ずっと…」
そう言って柔らかく微笑んだ。
「わた…しも…、愛してる…。心から…。愛してるよ…。」
そういうとオルヤの唇へ口づけた。
そして彼女はゆっくりと瞼を閉じ…。旅立っていった…。
葬儀の日、エリオットを初め親しい人達に見送られ、彼女はもう二度と触れる事の出来ない所へと逝ってしまった。
後からカルロスに聞いたが、あの傷でここまで持って生きて居られた方のが不思議なくらいだという。
一人冷たい石版の前に跪き真新しく刻まれたオルヤの名をなぞる。
「オルヤ…私はこれから…どうすればいいんだ…。」
左手に握った切れた皮紐を眺める。
あの時、探索を止めていればオルヤはきっとこんな事にはならなかっただろう。
これが、あの日の吉凶を知らせてくれていたというのに…。
結婚してから、どれだけ彼女の事を大事にしてやれただろう。
どれだけ彼女の方を向いていただろう。
しあわせに甘んじて胡坐をかいていた自分を恥じた。
To be continude...
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